1945年8月9日午前11時2分。この時刻は、日本、そして世界にとって忘れ得ぬ悲劇の瞬間を刻んでいます。広島への原子爆弾投下からわずか3日後、長崎の空に人類史上2番目にして最後の核兵器が炸裂しました。私たちは、この日に犠牲となられたおよそ20万人の尊い命を悼み、核兵器のない未来を築くことを、現代に生きる若い世代として改めて強く誓います。
長崎に投下された原子爆弾「ファットマン」は、プルトニウムを原料とする、広島の原爆の約1.5倍もの強力な爆弾でした。当時約24万人が暮らしていた長崎の街は、一瞬にして地獄と化しました。1945年末までに73,884人が亡くなり、74,909人が負傷。死傷者の合計は約14万8千人にも上り、当時の人口の半数以上が犠牲となりました。しかし、その被害は一瞬で終わったわけではありません。被爆から約80年が経過した現在でも、放射線誘発性のがんやその他の後障害によって命を落とす方が後を絶たず、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館の死没者名簿には、2024年8月9日現在で198,785名もの名前が登載されています。この数字は、原爆の悲劇が今なお現在進行形であることを私たちに突きつけます。
原爆がもたらした破壊は、想像を絶するものでした。爆発の瞬間、摂氏数千万度の火球が発生し、地表温度は3,000~4,000℃に達しました。その直後、音速に匹敵する秒速440メートルの爆風が街を薙ぎ払い、市街地の約6.7平方キロメートルが一瞬にして更地と化しました。当時東洋一の規模を誇った浦上天主堂は、爆心地からわずか500メートルほどの距離でほぼ完全に倒壊し、多くの信者や司祭が犠牲となりました。長崎の地形は山々に囲まれた盆地状であったため、爆風や熱線の直接的な影響は遮られましたが、浦上渓谷内部では爆風が集中する「チャネリング効果」により、広島の爆心地周辺よりもさらに凄まじい破壊がもたらされたことが特徴的です。
閃光(ピカ)と轟音(ドン)の後に現れたのは、まさにこの世の地獄でした。生存者たちは、黒焦げの死体、皮膚が垂れ下がり幽霊のようにさまよう人々、そして死臭が充満する街の様子を語っています。水と家族を求める声が響き渡る中、病院や学校、行政機関は機能を停止し、多くの負傷者が治療を受けることもなく命を落としました。永井隆博士が『長崎の鐘』に綴った被爆体験や、「焼き場に立つ少年」の写真が示す情景は、言葉にならない悲惨さを現代に伝えています。被爆後、放射線による「原子病」(急性放射線症候群)が人々を襲い、脱毛、紫斑、高熱、血まみれの下痢といった奇妙な症状で次々と命が奪われました。原爆は「殺し続ける兵器」であり、その影響は生涯にわたって被爆者を苦しめました。放射線影響研究所(RERF)や長崎大学原爆後障害医療研究所(GENKEN)による長年の調査により、放射線被曝線量と、白血病や固形がんの発症リスクとの間に明確な量的関係があること、そして「これ以下なら安全」という閾値がないことが科学的に立証されています。
被爆者の苦しみは、身体的なものだけではありませんでした。戦後の社会では、「原爆の病気がうつる」「遺伝的な異常が出る」といった根拠のない差別や偏見に苦しみ、結婚や就職において困難を強いられました。多くの被爆者が自らが被爆者であることを隠して生きざるを得なかったという「社会的死」とも言える過酷な現実があったのです。また、日本政府による被爆者援護策も、長年の闘いの末にようやく確立されたものであり、「黒い雨」を浴びた人々や「入市被爆者」が長らく援護の対象外とされてきた問題は、今なお未解決の課題として残っています。
長崎は、その壊滅的な被害から立ち上がり、「恒久平和の理想を達成する」ための国際文化都市として復興の道を歩み始めました。平和公園や長崎原爆資料館、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館といった施設は、被爆の記憶を後世に伝え、平和への願いを発信する拠点となっています。平和公園のシンボルである平和祈念像や、原爆落下中心地碑、そして被爆した旧城山国民学校校舎や山王神社二の鳥居といった「長崎原爆遺跡」は、「もの言わぬ語り部」として、私たちに戦争の悲惨さと平和の尊さを訴え続けています。
私たちは、長崎原爆の悲劇を単なる過去の出来事として受け止めることはできません。被爆者の皆様が「もう二度と被爆者を作りたくない」「地球上から核兵器をなくしたい」と訴え続けてきた強い願いは、今を生きる私たち若い世代が受け継ぐべき重い宿題です。被爆者の高齢化が進み、直接お話を聞く機会が年々少なくなっている今、その記憶をいかに次世代へ継承していくかが喫緊の課題となっています。
長崎では、この課題に対し、様々な取り組みが進められています。学校における平和教育では、被爆者や「語り部」を招いた講話が恒例行事となり、被爆者から直接体験を聞き取って代わりに語る「被爆体験伝承者」の育成も積極的に行われています。さらに、デジタル技術を活用した記憶の継承も進んでいます。長崎大学などが公開する「ナガサキ・アーカイブ」や「被爆前の日常アーカイブ」といったデジタル立体地図やオンラインプロジェクトは、当時の写真や証言を地図上に重ねて表示し、AIによる白黒写真のカラー化や3Dモデル化を行うことで、若い世代が直感的に、多角的に歴史を学ぶ新たな機会を提供しています。これらの取り組みは、物理的距離や時間の壁を越え、被爆の記憶をより多くの人々に届けるための、私たち若い世代の新たな希望の光です。
長崎は、核兵器廃絶と世界恒久平和を訴える国際的な平和運動の拠点としての役割を果たし続けています。毎年8月9日に行われる「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」で長崎市長が読み上げる「平和宣言」は、単なる追悼の辞ではなく、核兵器禁止条約(TPNW)への支持を日本政府に求めるなど、核軍縮に向けた具体的な行動を世界の指導者たちに強く要請する政治的なメッセージでもあります。2017年に採択・発効した核兵器禁止条約は、被爆者たちの長年の働きかけと、国際社会の「核兵器の非人道性」への認識の高まりが実を結んだものです。長崎市長も、日本政府が条約に署名・批准しない中でも、「平和首長会議」を通じて核廃絶を訴え続けています。私たちは、唯一の戦争被爆国である日本が、この条約に加わらないという現状の矛盾にも目を向け、核兵器のない世界を実現するために、国際社会の一員として、また一市民として、声を上げ続ける責任があると感じています。
長崎原爆の悲劇は、日本の植民地支配と侵略戦争という歴史的文脈と切り離すことはできません。岡まさはる記念長崎平和資料館(現・長崎人権平和資料館)が朝鮮人被爆者の苦しみに光を当てるように、私たちは「被害」と「加害」の二重性という複雑な歴史にも真摯に向き合う必要があります。核兵器廃絶への願いは、単に自国の被害を訴えるだけでなく、戦争の加害者としての責任、そして人類全体の過ちとして、普遍的な平和の探求へと昇華されなければなりません。
私たちは、長崎原爆の日に、亡くなられたすべての犠牲者に心からの哀悼の意を表します。そして、「長崎を最後の被爆地に」という被爆者の皆様の切なる願いを、未来を生きる私たち若い世代が力強く受け継ぎ、核兵器のない、真の平和な世界を実現するために、学び、伝え、行動し続けることをここに誓います。
リミッドブレイク、リミブレイク 代表取締役 佐々木 優 メンバー一同
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